Man-Made-Pollution

日本には、水俣病やイタイイタイ病という事例があった。いつの世も、被害者は悲惨である。身体が不自由になった子供を抱きしめて、涙を流して自分を責める母親の姿が、そこにはあった。行政も、学者も、経済優先で企業側の論理に立ち、住民たちの健康被害を助長してしまった。

「論理はいつも、強者がつくる」

市民の側に立った弁護士の、中坊公平氏は、当時、貧しい市民の側に立つことは勇気のいることであった、と語っていた。彼の心を動かしたのは、企業や国を責めずに、自分を責める母親の姿であり、赤児に政治の論理が関係あるか、と言い放った父親の励ましであった。

「事実は改ざんされ、情報は隠される」

欧米でも同じ流れであった。ルイジアナの自然と水は石油化学品で汚れ、牛や人間の健康も相当ひどいものになった。事件は、女性の身体の変調から始まった。Silent Spring、沈黙の春。春が来ない。一人の女性が立ち上がり、多くの母親が立ち上がった。それでも、企業や行政は、被害者の声を無視した。

「失くしたものは取り戻すのは大変だ」

昔は、東京の神田川でも、泳げたほど、きれいな水であった、という。「冷たい川の水は、夏になると、子供たちが飛び込んだものだ」と。いつの間にか、夏になると、光化学スモッグ警報が流れるようになった。「ああ、またか」と、何も感じられなくなるほど、公害は、当たり前になった。

「春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が・・・」という歌を小学校で習う頃には、汚くて、臭い、隅田川になってしまい、きれいな川のせせらぎは消えた。

「おかしい、と思うこころが死んでいった」

パブリックは、自分から始まるものだ、ということを忘れがちである。中国人の多くは、「自分がいい加減だから、他人もいい加減だろうと、思っている」、と中国人の知人が言っていた。環境問題の背景にある精神風土だ。

日本でも、世界でも、自分さえよければいい、という周波数は、いまや世界共通。パブリックは自分のことではない、というコモンズの悲劇とともに、私有化によるマイナス面のtragedy of anti-commonsもある。

「グローバル社会では、他国の公害も、他人事ではない」

たとえば、PM2.5の問題は、「中国の国内問題だ」、というのは、すこしばかり虫が良すぎる。確かに中国の責任は重い。しかし、中国が世界の工場になっている現状を肯定している以上、日欧米も含めたglobal issueであり、public responsibilityなのだ、というほうが、fair to bothではないのか、fair to globalではないのか、というfair tradeの概念もある。PM2.5が赤子の肺をおかすことが証明された。